北九州の街をゆっくりと歩いてみませんか

“長崎街道”とは

 江戸時代、徳川幕府は江戸中心の街道を幹線道路とし、全国に宿駅を整備しました。街道には五街道と脇街道がありました。豊前小倉と長崎を結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道です。
 57里(約228キロメートル)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬(現在の八幡西区内)、飯塚(飯塚市内)、内野(筑穂町内)、山家・原田(筑紫野市内)の各宿は、筑前六宿と呼ばれ、大変なにぎわいをみせました。
長崎街道は鎖国体制を敷いていた日本の中で、唯一外国との文化交流や通商の窓口にしていた長崎から西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として、重要な役割を果たしていました。
長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用し、また九州西半の大名が参勤交代のために通った他、多くの学者や文人、象やクジャクなどの動物も通っています。


門司港レトロ

 門司は大化2年(646)に大宰府官道の入口として関所が置かれ、平安時代から鎌倉時代にかけて、都と大宰府を結ぶ重要な地でありました。
 明治から大正にかけては、ロンドン、ハンブルグへの欧州航路や大連、上海への大陸航路など、様々な外国客船が入港する国際貿易港として繁栄し、最盛期には年間600万人近い乗降客で賑わっていました。
 門司港は九州の北端の港町です。対岸の下関地区を含め、古い街並みが残され、ロマンあふれる都市型観光地として整備されています。
 門司港レトロは、この古い街並みと新しい都市機能をうまく調和させた都市型観光地です。

 

大里宿

 慶長17年(1612)、冷水峠が開通して、長崎街道が短縮されたので、九州諸大名はこの路を参勤に利用するようになりました。筑前六宿はこの時成立しました。細川藩もこれに関連し、本土渡海の為に、短距離で潮の都合のよい大里を選び、ここに宿駅を設置したようです。
 大里宿は九州最北部に位置し、上り赤間関には海上約一里半(5.9km)、下り小倉へは一里十九町十七間余(約6km)となる宿駅です。
宿駅は村の中央部を町区(田畑川と水無川の間)とし、両端を南北区とする、全長646mの街道沿いに軒を連ねた小さな宿駅でした。

 
 

大里宿〜小倉城下町

 本土(赤間関)への渡海地大里宿(門司区大里本町)から、門司口御門(小倉北区砂津川河口)を経て常盤橋までの短い区間を、門司往還といい、多くの大名の参勤街道として活況を呈していました。 
 「門司往還」の項目の説明をご覧ください。また、「民話・こぼれ話」に「門司往還」にまつわる話をご用意しています。)

 

小倉城下

 永禄12年(1569)、中国地方の毛利氏が現在の小倉城のある場所に城を造り、慶長7年(1602)、細川忠興が今のような城を造りました。
 忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。
 細川氏が熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、寛永9年(1632)に15万石の大名として入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。
 江戸時代から九州の玄関口であった小倉は、大変賑わいを見せていました宿屋が集まっていた。京町・室町付近(JR小倉駅から西小倉駅付近)には、小倉織(木綿の織物で当時の小倉藩の特産品)を売っている店もありました。

 

小倉城下〜黒崎宿


 長崎街道の起点は、紫川に掛かる常盤橋西詰です。ここから黒崎宿までの行程は約13キロで、小倉城下から黒崎宿まで内陸部の最短コースを結んでいました。明治時代以降、この長崎街道沿いには九州鉄道や路面電車の軌道が敷設され、交通の大動脈として重要な役割を担っていました。現在は、小倉中心部と黒崎を結ぶ路線バスの幹線が走っています。気軽に長崎街道跡を散策される方は、路線バスを利用されると便利です。
 紫川に掛かる木の橋=常盤橋から室町商店街を抜け大門跡から安国寺、竪町界隈は旧市街が残り懐かしさを感じる街並みです。清水付近に来ると、清水寺・円応寺・本就寺・大満寺のほか、街道跡が残っている水かけ地蔵周辺など史跡が点在しています。
 八幡東区に入ると豊前領最西の番所だった荒生田番所跡があります。番所跡から板櫃川を渡った高見中央公園には「荒生田の一里塚跡」があり、約200メートル西の住宅地の中には雄大な「三条の国境石」が鎮座しています。ここからが筑前領でした。長崎街道は大蔵から緩やかな坂を下り東田地区の博物館群を抜け、さらに西本町、尾倉と進みます。八幡図書館前庭に国境石、前田3丁目南公園には「前田の一里塚跡」があります。陣山から八幡西区に入り、JR鹿児島本線を横断した田町2丁目の黒崎城跡南側に黒崎宿東構口跡があります。

黒崎宿


 黒崎宿は、福岡と小倉両藩の境界にあり、長崎街道における筑前側の玄関に位置し、参勤交代の制度が確立した寛永年間(1624~1644)の頃整備されました。
 福岡藩では唯一、上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港を持つ宿場町で、対馬と五島を除く九州西半の大名や多くの旅人がこの宿場を利用しました。
 江戸時代後半には、東構口から西構口までの約900メートルの町筋には、これら諸藩の御用達や定宿、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋(脇本陣)が設けられていました。また、人馬継所、関番所、郡家、代官所などが完備され、一般の旅籠屋(旅館)や商店も軒を並べていました。
 現在は都市開発が進み、昔の街並みを見ることは出来ませんが、あちこちに宿場町の歴史を偲ばせる神社・仏閣や史跡などが残っています。

黒崎宿〜木屋瀬宿


 黒崎宿から木屋瀬宿へ向かう約20キロメートルの間には、幸ノ神・小嶺・茶屋の原の一里塚があります。
 昔は木を切ったり、田や畑をつぶして道を作る事はしませんでしたので、この区間は坂の多い、難所もたくさんありました。街道一の難所といわれたのが石坂の急坂です。参勤交代のお殿様も籠を降りたといわれる難所です 。
 その石坂に大名たちの休憩所、立場茶屋銀杏屋があります。現在は資料館として整備され、 昔の旅人の苦労に思いを馳せることが出来ます。

木屋瀬宿


 永禄12年(1569)、中国地方の毛利氏が現在の小倉城のある場所に城を造り、慶長7年(1602)、細川忠興が今のような城を造りました。
 忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。
 細川氏が熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、寛永9年(1632)に15万石の大名として入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。
 江戸時代から九州の玄関口であった小倉は、大変賑わいを見せていました宿屋が集まっていた。京町・室町付近(JR小倉駅から西小倉駅付近)には、小倉織(木綿の織物で当時の小倉藩の特産品)を売っている店もありました。