小倉北区長浜町2-21
貴布袮神社
江戸時代、砂津川にかかる門司口橋を渡ったところに門司口門がありました。小倉城郭の門の一つで、この門の前の道は大里方面に通じる九州諸大名の参勤交代の道(門司往還)でした。
往還に沿った長浜は、江戸時代上方への小早舟の船頭や漁師の町で、明治時代には格子のはまった家が並んでいました。また、この街道から北側は遠浅の浜辺で、漁船が繋がれていました。
万葉集の歌碑
小倉から門司の大里にかけての海岸は、「企救の長浜」または「企救の高浜」と呼ばれていました。
この長い海岸線には白砂と美しい根上がり松が群生して、遠く万葉の昔から大宰府に往来する貴人や防人(さきもり)たちの心を慰めたものです。この「企救の長浜」、「企救の高浜」を詠んだ歌が万葉集に二首出ています。
貴布祢神社境内にはそのうちの一首の歌碑があります。
貴布祢神社の御祭神は高淤加美神、闇淤加美神、上筒之男神、中筒之男神、事代主神、綿津見神、相殿に蛭子社、榊姫社、八大龍王社、役の行者(えんのぎょうじゃ)を祀っています。当社はもとは紫川東岸の宝町、現在の船場町一番(井筒屋北)付近にありましたが、慶長7年(1602)細川忠興が小倉城築城のときに現在地に遷座されたとのことです。
「豊国の企救の長浜ゆきくらし 日の暮れぬれば 妹をしぞ思ふ」
「豊国の企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは 小夜(さよ)ふけにけり」
いずれも詠み人知らず。