小倉北区金田1(裁判所裏)
清水口門跡
慶長五年(1600)の関が原合戦後、細川忠興は豊前一国と豊後二郡を与えられ中津城に入りました。 2年後の慶長7年(1602)広大な小倉城を築くことにしました。外敵を防ぐため、城郭の外に濠と土手を築き、濠の所々に出入りする門を造りました。
東側では門司口門、富野口門 、 中津口門、南側には香春口門、篠崎門、蟹喰口門、西側には到津口(筑前口)門、紺屋町口門、溜池口門、清水口門などです。
通行人が最も多かったのは、門司口門と到津口門だった。この二つの門には番人が交代で勤め、24時間開門していたという。また、中津口門や香春口門は朝四時から夜 12時まで、開門して、深夜は閉門していたといいます。
この清水口門はあまり利用者がなかったらしく、幕末の屋敷絵図を見ると、門は描いているが、その外に土手を築いて通行できないようにしています。
幕末の小倉の様子を書いた「龍吟成夢」の中に下滋町の次の萩の町に「明けずの門」があり、今は門もないと書いています。