小倉北区鍛冶町一丁目7-2
森鴎外旧居
鷗外は、鍛冶町の家には約1年6ヶ月住み、その後京町に引っ越しました。
この家は、明治時代の町屋形式の家屋で建築物としても貴重なものです。鷗外の小倉時代を描いた作品の中でも、「鶏」にはこの家の間取りなどの記述があります。小倉に在住した間、鷗外は洋書の翻訳や通称「小倉日記」と呼ばれる日記をつけていました。
「小倉日記」の中には、小倉にいた時の鷗外の様子や、当時の小倉の人々の生活の様子が詳しく書かれています。また「独身」、「鶏」などの作品は鷗外の小倉時代がモデルになっています。
●森鷗外
(もり おうがい)1862~1922
文豪森鷗外が陸軍第十二師団の軍医部長として小倉に赴任したのは、明治32年6月19日である。以後2年10ケ月をこの町で過ごし、同35年3月26日に新妻志げを伴って小倉を離れ、上京しました。
この地では、創作は手がけていませんが、翻訳「即興詩人」を完成させ、地元新聞にしばしば寄稿したのを始め、講演や講習で九州各地を回って史跡や文化財に触れています。
本名 森 林太郎。